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本草新編69 甘草2

 あるいは、 中満症 は甘を忌むという。甘草が人の膨満を助けることを恐れるからか? 中満が甘を忌むのは、甘草を忌むのではない。中満とは、気虚による中満である。気虚とは、脾胃の気が虚していることである。脾胃は甘を好むのに、どうして甘草を忌むのか? 甘草は性質が緩やかで、緩やかなため胃に入ってもすぐに脾胃の気には入らない。 気が虚している者は、甘草の補益を得ても、急には受け入れられず、かえって膨満を増すように見えるが、それも一時的な膨満であって、長く続くものではない。 ゆえに、中満の症には、かえって甘草を用いるべきである。 人参、茯苓、白朮などの薬を中満の中に導き入れ、脾胃の虚している者を虚させず、膨満している者を膨満させないようにする。 ただし、多用したり、単独で用いたりしてはならない。多用すれば膨満を増し、少量用いれば膨満を消す。単独で用いれば膨満を増し、併用すれば膨満を除く。誰が中満が甘草を忌むと言ったのか。 [傍注: 中満は甘草を忌むと言われるが、かえってこれを用いて成功している。薬はうまく使うべきであり、どうして甘草だけに限られようか?]

本草新編68 甘草1

 甘草は味が甘く、気は平、性は温で、昇降が可能であり、陽中の陽である。他の書物で陰中の陽とあるのは誤りである。無毒。 甘遂 とは相反し、併用してはならない。併用すれば必ず人を殺す。太陰、少陰、厥陰の経絡に入る。攻補の薬を調和させ、 癰疽疔毒を消すのに神功がある。 特に諸痛を止め、 陰虚火熱を除き 、口渇を止め津液を生じるのに優れている。しかし、その性質は緩やかであり、急病には最も適している。故に、寒病に熱薬を用いる際には、 桂枝や附子の熱を抑えるために甘草を加え 、熱病に寒薬を用いる際には、 石膏の寒を抑えるために甘草を加える。 下病を速やかに攻めるべきでない場合は、 大黄の峻烈さを抑えるために甘草を加え 、上病を急に昇らせるべきでない場合は、梔子の動を抑えるために甘草を加える。緩やかさの中に和の意義がある。 ただその味が甘く、甘はよく動かすため、 吐き気や嘔吐のある患者には多服は適さない が、しかし、これにこだわるべきではない。甘草は昇降が可能で、吐かせるために用いれば吐かせ、下すために用いれば下す。これも人がいかにうまく使いこなすかによる。 [傍注:薬は甘草を加えれば性質が穏やかになる。過度な作用を和らげる場合はよいが、そうでない場合は適さない。]

本草新編67 黄耆12

 あるいは、黄耆はなぜ必ず蜜炙しなければならないのか、生で用いてはいけないのか?しかし、瘡瘍の門では、生黄耆をもっぱら用いるが、それにも理由があるのか?と問うと、 答えて曰く: 黄耆はもともと蜜炙する必要はない。 世間の人は黄耆は炙ると補い、生だと瀉すと謂うが、実際には生で用いても補わないことはない。 [傍注:確かにその通りである。]

本草新編66 黄耆11

 あるいは、黄耆は気を補うのに、なぜ必ず当帰を助けて血を補うのか、気は血がなければ生まれないのか?と問うと、 答えて曰く: 気は血を生み出すことができるが、血は気を生み出すことはできない。 気を生み出すことはできないのに、気を補うには必ず血を補うのは、その助気を取るためではない。そもそも気虚の人は、血もそれに伴って消耗しないはずはない。 私が大量の黄耆だけを用いて気を生み出すと、気が旺盛になり血が衰え、血が気の余剰に配することができず、気は必ず血の不足を生み出し、かえって気の益を得られず、気の害を得てしまう。ゆえに 気を補うには必ず血を補うことを兼ね施すべきである。 しかし、気虚のために気を補い、さらにその血を補うと、血が旺盛になり気が依然として衰えるのはどうすればよいのか?と問うと、 答えて曰く:血が旺盛になれば気は血を生み出すことに向かわない。ゆえに血を補えば気は自ずと旺盛になり、偏勝の憂いは不要である。しかし、 気を多く補い血を少なく補うのは、非常に適切な調剤である。 [傍注:余すところなく闡明されている。]

本草新編65 黄耆10

 あるいは、黄耆は気の虚を補うものであり、初期の虚を補うことしかできず、長患いの虚を補うことはできないと疑う人もいる。私はその理由を尋ねた。 曰く:初期の虚の病には、黄耆は受け入れられやすいが、長患いの虚の病には、黄耆は受け入れられにくい。ああ!虚病には補剤を用いるべきであり、新旧問わず受け入れられるべきである。 受け入れられないのは、気の虚ではなく、気の逆である。気逆の虚には、必ず人参を用いるべきであり、黄耆を用いてはならない。 初期の気逆の時には、すでに黄耆は禁忌である。なぜ長患いになってからでなければ使えないのか。もし気が虚であっても逆がなければ、長患いにはまさに黄耆が適しており、服用して安らかにならないことはない。誰が黄耆は受け入れにくいと言ったのか。 [傍注:黄耆は気逆の虚を補うことはできない、妙論である。]

本草新編22 人参4

 あるいは、人参は腎臓に入る薬であり、腎臓の虚火が上衝し、肺に気が満ちて咳が出る場合にも使えるのかと疑う人もいるだろう。これはまた、人参の効能を知らないからである。腎臓の水が虚している場合、人参で水を補うことができる。腎臓の火が動いている場合、人参を使うと必ず火を助長することになるので、これもまた区別しなければならない。人参は肝腎に入り、血を補い精を増すことができるが、それも 当帰、白芍、熟地、山茱萸といった仲間と協力して初めて可能であり、人参一味だけで肝腎に入ることはできない。 もし腎臓の陰虚火動の場合、これは水が不足して火が余っている状態なので、水を補って火を抑える必要があり、温熱の性質を持つものは決して使ってはならない。 例えば補骨脂、杜仲のようなものは、腎臓に直接入る薬ではあるが、併用してはならない。まして人参は陰よりも陽が多いものであり、軽々しく使うべきではない。併用してはならないことは明らかである。禁忌を知らずに妄用すれば、肺気はさらに満ち、咳はさらにひどくなり、いわゆる肺熱が肺を傷つけるというのはこの類である。 火が衰えて陽虚の場合、人参は重用すべきである。 腎臓の下寒がひどい場合、龍雷の火が至陰の中に隠れることができず、勢いよく上衝して咽喉に至り、しばしば上熱が極まり、下半身は寒がり、両足が氷のように冷たくなる者もいる。もし熱があると思って、芩、連、梔、柏の類を投与すれば、火炎はますます燃え盛る。もし人参を附子、桂、姜の類と併用して治療すれば、火は自然と退蔵し、消え去るだろう。虚火には、陽が盛んで陰が消える者もいれば、陰が盛んで陽が消える者もいるので、一概に人参で虚火を治療することはできない。

本草新編21 人参3

気を上げるには、必ず升麻、柴胡を加える。中を和するには、必ず陳皮、甘草を加える。脾を健やかにするには、必ず茯苓、白朮を加える。 動悸を鎮めるには、必ず遠志、棗仁を加える。咳を止めるには、必ず薄荷、蘇葉を加える。痰を消すには、必ず半夏、白芥子を加える。胃の火を下げるには、必ず石膏、知母を加える。陰寒を消すには、必ず附子、干姜を加える。 毒を破るには、必ず芩、連、梔子を加える。食を下すには、必ず大黄、枳実を加える。補うには補い、攻めるには攻める。 配合が適切で、軽重が法に適っていればよい。例えば、国家に賢明な君主がいて、小さな敵が現れたとき、将軍を派遣し、軍を率い、旗を奪い、その意のままにすれば、容易に成功する。もし人参だけを用いて補うことに専念すれば、主は弱く敵は強く、素手ではどうして勝てるだろうか?これは皆、人参の使い方が下手なためである。 しかし、人参も一味だけで成功することがある。 例えば 独参湯 は、一時的な便宜であり、常に服用できるものではない。もし人が一時的に気が抜け、血が瞬時に失われ、精がたちまちなくなり、陽が朝夕に絶えようとするとき、他の薬では間に合わない。人参を一、二両、あるいは三、四両用いて、一服煎じて救わなければならない。さもなければ、陽気が急に散って死んでしまう。 このとき、他の薬を混ぜて共に挽回できないわけではないが、その手を縛り、かえって効果が遅くなり、無何有の郷(むかうのさと/自然のままの世界)に帰ることができないことを恐れる。 陽が戻り気が転じたら、急いで他の薬で助け、初めて再び絶えることを防ぐことができる。さもなければ、陰寒が迫り、また不測の事態が生じることを恐れる。人参は必ず補佐の品があり、互いに助け合って成功し、一味だけに頼って必ず勝つことはできない。 あるいは、人参は気分の薬であり、先生は肝に入り腎に入ると言われるが、血分の薬でもあるのかと疑うかもしれない。人参は血分の薬であるだけでなく、実は至陰の薬でもある。 肝の血は人参を得れば生じやすく、腎の精は人参を得れば長じやすい。世間の人は人参を気分の薬とし、肝腎の治療には全く用いない。 これが医道の不明な点であり、生者の大きな不幸である。しかし、人参は高価であり、貧しい人は長く服用できないのが残念である。

本草新編20  人参2

天地の道は、陽は陰に根ざし、陰もまた陽に根ざしています。陰がなければ陽は生まれず、陽がなければ陰は育たないという至理があります。 例えば、 喘息の症状は腎気の絶えようとしている状態 であり、腎を補って逆転させるべきですが、なぜ人参を使えば瞬時に元陽を回復できるのでしょうか。人参が腎に入らなければ、どうしてこれほど神効があるのでしょうか? また、傷寒の厥症で手足が冷たくなるのは、肝気の逆流であり、四逆湯などの薬を用いる場合も、必ず人参を多めに加えなければ厥を鎮めることはできません。人参が肝に入らなければ、どうしてここまでできるのでしょうか?このように、 人参が肝、腎の二経に入る ことは、誰もが信じ、疑う余地のないことです。しかし、人参をうまく使えない者は、しばしば失敗します。人参は君薬であり、他の薬と併用して初めて成功しやすいのです。

本草新編19  人参1

人参は味が甘く、 性質は温かくも冷たくもなく、その気味は共に軽く、昇降が可能で、陽の中に陰があり、 毒性はありません。まさに気を補う聖薬であり、人を活かす霊妙な薬草です。 五臓六腑に入り、到達しない経絡はなく、単に脾肺心に入るだけでなく、 肝腎にも入ります。 五臓の中では、特に肺と脾に特化して入ります。心に入るのは十のうち八、肝に入るのは十のうち五、腎に入るのは十のうち三に過ぎません。 世間の人々は人参が肺、脾、心の経絡の薬であるとしか知らず、肝腎にも入ることを知りません。しかし、肝腎は極陰の経絡であり、人参の気味は陰よりも陽が多く、少量では上部に浮き、多量では沈下します。したがって、肝腎の病気には、補血、補精の薬の中に人参を多めに用い、山茱萸や熟地黄のような純陰の薬を助け、陰の中に陽を生じさせることで、血や精を生み出すのが容易になります。

本草新編18

『精校本草新編』の学術思想は、主に張景岳の「温補」学説の継承と発展にあります。「人は火によって生まれ、寒によって生まれない」と述べ、腎中の真火真水を養護することの重要性を強調し、朱丹渓の「降火滋陰」を核心とする寒涼派学説を激しく批判し、世間が安易に黄柏や知母を用いて腎火を害することに断固として反対しました。そして、創造的に 「胃は腎の関門である」という観点を提唱し、後天と先天を巧みに結びつけました。 医者が『本草』を読まなければ、薬を使うことはできない。神農氏が薬を嘗めて以来、『本草』を著した者は数十家にも及ぶが、伝えられる説は疑わしいものも信じられるものもあり、真に正しいものに統一されることはなかった。

本草新編17

十剤論10 十論、湿剤。 岐伯夫子曰く、「湿は枯れを去るべし」。夫れ湿と燥は相宜しく、湿を以て燥を潤すなり。然るに燥には気、血、臓、腑に在るの殊あり、内、外、久、近に在るの別あり、未だ一概に用いるべからず。 気燥 には辛を以てこれを湿し、 血燥 には甘を以てこれを湿し、 臓燥 には鹹を以てこれを湿し、 腑燥 には涼を以てこれを湿し、 内燥 には寒を以てこれを湿し、 外燥 には苦を以てこれを湿し、 久燥 には温を以てこれを湿し、 近燥 には酸を以てこれを湿す。 燥は同じからず、虚実を審らかにしてこれを湿せば、宜しからざるなし。

本草新編16

十剤論9 九論、燥剤。 岐伯夫子曰く、燥は湿を去るべし。夫れ燥と湿とは相反し、燥を用いる所以は湿を治するなり。 然れども湿には 上、中、下 の分あり、湿には 経、皮、裏 の異あり、一概に用いるべからず。上にある湿は苦をもってこれを燥し、中にある湿は淡をもってこれを燥し、下にある湿は熱をもってこれを燥し、経にある湿は風をもってこれを燥し、皮にある湿は薫をもってこれを燥し、裏にある湿は攻をもってこれを燥す。 真湿 の症は、その症実なり。 偽湿 の症は、その症虚なり。水湿の真偽を知れば、何ぞ燥剤を用いること難きことあらんや。

本草新編15

 十剤論8 八論、渋剤。 岐伯夫子曰く、 渋は脱を去るべし。 遺精 して止まらず、 下血 して断たれず、 瀉水 して留まらず、急いで薬を用いてこれを渋らせなければ、命はたちまち亡びるのではないか?しかし、これを渋らせることは容易ではない。その竅を開いてこれを渋らせる者あり、その流れをせき止めてこれを渋らせる者あり、その勢いに因ってこれを渋らせる者あり。 精遺する者は、尿竅閉じるなり、吾は尿竅を閉じて精を渋らせれば、精は渋るべし。水瀉する者は、脾土崩れるなり、吾は土気を培って疏水させれば、水瀉は渋るべし。血下る者は、大腸熱するなり、吾は金液を滋養して血を殺せば、下血は渋るべし。

本草新編14

十剤論7 七論、滑剤。 岐伯夫子曰く、「滑は着を去るべし」。邪が腸胃の間に留まり、急に化すことができない場合、滑剤でなければ、どうして速やかに利することができるだろうか。しかし、ただ滑らせるだけでは正に益がない。その気を潤して滑らせる者、その血を潤して滑らせる者、その気血を潤して滑らせる者がいる。 物が上焦に詰まり、上ろうとしても上れない場合、その 気 を潤せば咽喉は自ずと滑らかになる。食が下焦に留まり、下ろうとしても下れない場合、その 血 を潤せば肛門は自ずと滑らかになる。滞穢が中焦に積もり、上ろうとしても上れず、下ろうとしても下れず、中に留まろうとしても留まれない場合、その 気血 を潤せば胸腹は自ずと滑らかになる。 滑の法は三つに尽きるが、滑の変化は三つにとどまらない。その 水 を補って滑らせる者、その 火 を補って滑らせる者がいる。水を補うとは、腎中の真水を補うことである。火を補うとは、腎中の真火を補うことである。真水が足れば大腸は自ずと潤い、真火が足れば膀胱は自ずと通じる。 膀胱が火を得て通じないのは、膀胱の邪火である。 膀胱に火があれば水は渋るが、膀胱に火がなくても水は渋る。膀胱の水は、必ず命門の火と相通じて、初めて膀胱は流通の楽しみを得る。 そうであれば、火を補うことはまさに水を滑らかにするのであり、滑らかにする剤ではないと言えるだろうか。

本草新編13

十剤論6 六論、重剤。 岐伯夫子曰く、重きは怯を去るべし。夫れ怯とは、正気の怯であって邪気の怯ではない。正気が強ければ邪気は自ずと弱くなり、正気が損なわれれば邪気は自ずと旺盛になる。 弱い者を助けるには強い者を鋤き、損なわれた者を補うには旺盛な者を抑える必要があるように思われるが、しかし正気がすでに怯えているのに、邪気を攻めれば邪気はますます盛んになる。故に、まず正気を安固にし、邪気の侵略や奪い合いを恐れなければ、その後、神は驚くことなく、志は寧静の休みを得る。これが重剤の妙である。 気が怯えている者は心が驚き、血が怯えている者は心が動く。心が驚く者は必ず驚きを止める品を用い、心が動く者は必ず動きを安んじる味を用いる。重い薬を用いなければ、どうして鎮静させることができようか。ただし、 重い薬は単独で用いるべきではなく、あるいは気を補うものを補助として用いれば、鎮静させて驚きを止めやすくなる。あるいは血を補うものを補助として用いれば、静かにさせて動きを抑えやすくなる。 重剤は怯を止めるが、これは胆気を安んじることのようだ。曰く、 怯の意は胆から出るが、怯の勢いは実に心に及ぶ。重剤で心を鎮めるのは、まさに胆を助けることである。

本草新編12

十剤論5 五論、軽剤。 岐伯夫子曰く、軽きは実を去るべし。夫の実とは、邪気が実であって正気が実ではない。邪気の実には、重剤を用いて実を去るべきであるように思われる。誰が知ろうか、邪実の者には、邪を去る薬を用いると、薬が重ければ重いほど邪はかえって変化しやすく、薬が軽ければ軽いほど邪はかえって留まりにくい。 人は邪実を見て桂枝を多く用いると、かえって無汗の憂いがあり、人は邪実を見て麻黄を多く用いると、また亡陽の失がある。 二味を少し用いるに如かず、正気は損なわれずして邪は尽く解ける、これ軽剤の妙なり。 邪が軽ければ薬は軽くてもよいが、邪が重い者にも軽くてもよいのかと問う。曰く、 邪を治す法は、薬が適切であるかどうかにかかっているだけであり、適切に用いれば邪は自ずと出ていく、もとより薬の軽重には関係ない。 あるいは邪気がすでに重いのに、どうして軽剤がかえって邪を去りやすいのかと疑う。蓋し邪が初めて人の身に入るとき、その勢いは必ず広がり浮き、人の虚に乗じてから深く入り込む、ゆえに邪を治すには軽くすべきで重くすべきではない。もし邪を治すのに急に重剤を用いると、往々にして軽きを重きに変え、浅きを深きに変え、速やかに癒えない。どうしてまず軽剤を用い、浮泛の薬で少しずつ発散させ、深く入り込まないうちに、除去する方が容易で得策ではないだろうか。 あるいは、軽い薬で邪気を散らすと、邪気が重い者でも散らすことができる。これは、邪気を散らすのは薬の味の軽さにあるのであって、薬の量の軽さにあるのではないようだ。 曰く、薬の味が軽い者は、薬の量も重くする必要はない。味が軽ければ軽いほど邪気は散りやすく、量が重ければ重いほど邪気は解けにくくなるからである。

本草新編11

十剤論4 四論、瀉剤 。岐伯夫子曰く、「 瀉によって閉塞を取り除くことができる 」。淡味で瀉するもの、苦味で瀉するもの、滑らかにして瀉するもの、攻めて瀉するもの、寒性で瀉するもの、熱性で瀉するものがある。 小便を利するものは、淡味で瀉する。肺気を利するものは、苦味で瀉する。大腸を利するものは、滑らかにして瀉する。痛みや滞りを追い出すものは、攻めて瀉する。胸のつかえや火を降ろすものは、寒性で瀉する。 腫れを消し血を化すものは、熱性で瀉する。 また瀉の中に補を寓したり、補の中に瀉を寓したりすることもある。 淡味で瀉するというのは、茯苓や猪苓を用いること。苦味で瀉するというのは、黄芩や葶苈を用いること。 滑らかにして瀉するというのは、当帰や滑石を用いること。 攻めて瀉するというのは、芒硝や大黄を用いること。寒性で瀉するというのは、瓜萎や厚朴を用いること。熱性で瀉するというのは、甘遂や巴豆を用いることである。

本草新編10

十剤論3 三論、補剤。 岐伯夫子曰く、「補は弱を去るべし。しかし、補の法もまた一様ではない。 その 気 を補いて陽を生じ、その 血 を補いて陰を生じ、その 味 を補いて精を生じ、その 食 を補いて形を生じる。 陽虚は気を補えば、気は旺盛になり陽もまた旺盛になる。陰虚は血を補えば、血は盛んになり陰もまた盛んになる。精虚は味を補えば、味は足りて精もまた足りる。形虚は食を補えば、食は肥えて形もまた肥える。人の身の虚は、この四つに尽きないが、この四つで十分に尽くすことができる。」 補法は四つに尽きるが、その四つの中には実に変化がある。 気を補うにも、朝夕の違いがあり、臓腑の違いがあり、前後の違いがある。血を補うにも、老少の違いがあり、胎産の違いがあり、衰旺の違いがあり、寒熱の違いがある。味を補うにも、軟滑の違いがあり、消導の違いがあり、温冷の違いがあり、新久の違いがあり、甘苦の違いがあり、燔熬烹炙の違いがある。食を補うにも、南北の違いがあり、禽獣の違いがあり、果木の違いがあり、米穀菜豆の違いがあり、魚鼈蝦蟹の違いがある。 「しかし、しばしば補えば補うほど虚になる者もいる。補剤は全く頼りにならないのか?」と。補えば補うほど虚になる者は、虚が補を受け付けないだけで、虚が補できないわけではない。ゆえに補の法もまた変えるべきである。 補の中に少し消導の品を加え、補の中に制伏の法を用い 、完全に補う必要はなく、純粋に補う必要もない。

本草新編9

十剤論2 二論、通剤。 岐伯夫子は言った。「 通は滞りを除去できる 」。 あるいは皮膚を通し、あるいは経絡を通し、あるいは表裏を通し、あるいは上下を通し、あるいは前後を通し、あるいは臓腑を通し、あるいは気血を通す。 営衛の気を通すことは、すなわち皮膚を通すことである。筋骨の気を通すことは、すなわち経絡を通すことである。内外の気を通すことは、すなわち表裏を通すことである。肺腎の気を通すことは、すなわち上下を通すことである。膀胱の気を通すことは、すなわち前後を通すことである。脾胃の気を通すことは、すなわち臓腑を通すことである。陰陽の気を通すことは、すなわち気血を通すことである。 営衛を通すには、麻黄、桂枝を用いる。 筋骨を通すには、木瓜、仙霊脾を用いる。内外を通すには、柴胡、薄荷を用いる。肺腎を通すには、蘇葉、防己を用いる。膀胱を通すには、肉桂、茯苓を用いる。脾胃を通すには、通草、大黄を用いる。陰陽を通すには、附子、葱、姜を用いる。 虚の中に通剤を用いる場合は、少量で軽くても差し支えない。実の中に通剤を用いる場合は、多量で重くても差し支えない。

本草新編8

十剤論1 十剤とは、宣剤、通剤、補剤、瀉剤、軽剤、重剤、滑剤、渋剤、燥剤、湿剤をいう。 一論、宣剤。 岐伯夫子曰く、「宣は壅を除去できる」と。また曰く、「木鬱は達し、火鬱は発し、土鬱は奪し、金鬱は泄し、水鬱は折す」と、これらはすべて宣することである。 気鬱 すれば咽喉頭目口舌の間を上通できず、 血鬱 すれば胸腹脾胃経絡の内を下達できない。 ゆえに上ではしゃっくり、或いは咳、或いは痰、或いは嘔吐の症状が生じ、中では痞、或いは満、或いは塞、或いは痛、或いは飽、或いは脹の病が起こり、下では腫、或いは瀉、或いは利、或いは結、或いは蓄、或いは黄の病が発する。 もし宣剤で気を 揚 がらせなければ、気は壅塞して不快となり、血を散らさなければ、血は凝滞して流れなくなる。 宣 すれば必ず木鬱は伸びやかになり、火鬱は発散し、金鬱は疎泄し、水鬱は曲折し、土鬱は殺奪される。 鬱症は五つだけではないし、宣鬱の方法も二つだけではない。 内側に鬱するもの、外側に鬱するもの、内でも外でもないところに鬱するものがある。内鬱するものは、七情の傷である。外鬱するものは、六淫の傷である。内でも外でもないところに鬱するものは、転倒墜落の傷である。 七情の傷を治す者は、その結を開く。六淫の傷を治す者は、その邪を散らす。転倒墜落の傷を治す者は、その瘀を活かす。これらはすべて宣の義を助けるものである。 宣は鬱を開き、鬱を解くだけではない。邪が上にある者は、宣して出すことができる。邪が中にある者は、宣して和することができる。邪が下にある者は、宣して泄することができる。邪が内にある者は、宣して散らすことができる。邪が外にある者は、宣して表に出すことができる。宣の義は大きい。

本草新編7

  七方論6 複方 偶とは 重方 であり、重方とは 複方 のことです。あるいは補の中に攻を用い、あるいは攻の中に補を用い、あるいは攻が多く補が少なく、あるいは攻が少なく補が多い。 『精校本草新編』より

本草新編6

七方論5 奇方 奇方とは、単方である。一味を用いて奇を出し、多くの味を用いて勝利を得る必要はない。 薬味が多いと、かえって牽制され、単刀直入に攻めることができない。 凡そ臓腑の中に、一経に特化した病気がある場合、一味だけを取り、その分量を増やして、病気のある場所に直接到達させれば、自ずと堅固な病気を攻め破り、神業のように効果を発揮するだろう。 白朮 一味は腰と臍の湿気を利し、 当帰 一味は血虚によるめまいを治し、 川芎 一味は頭痛を治し、 人参 一味は脱絶を救い、 茯苓 一味は下痢を止め、 菟絲子 一味は夢精を止め、 杜仲 一味は腰痛を取り除き、 山梔子 一味は脇痛を鎮め、 甘草 一味は解毒し、 大黄 一味は硬結を攻め、 黄連 一味は嘔吐を止め、 山茱萸 一味は精を益し腎の漏れを止め、 生地 一味は止血し、 甘菊花 一味は胃火を降ろし、 薏仁 一味は脚気を治し、 山薬 一味は精を益し、 肉蓯蓉 一味は大便を通じさせ、 補骨脂 一味は命門を温め、 車前子 一味は水様便を止め、 蒺藜子 一味は目を明るくし、 忍冬藤 一味は癰を治し、 巴戟天 一味は陽を強め、 荊芥 一味は血暈を止め、 蛇床子 一味は陽を壮にし、 玄参 一味は浮遊の火を降ろし、 青蒿 一味は暑さを消し、 附子 一味は陰虚の喉痛を治し、 艾葉 一味は脾を温め、 地榆 一味は便血を止め、 蒲公英 一味は乳腺炎を治し、 旱蓮草 一味は白髪を黒くし、 皂莢 一味は開関し、 使君子 一味は虫を殺し、 赤小豆 一味は湿気を治し、 花蕊石 一味は血を化します。 『精校本草新編』より

本草新編5

七方論4 急方 岐伯夫子曰く、 下を補い下を治すには、急方をもって制す。 おおよそ、 本を治す病には緩が良く、標を治す病には急が良い。 危篤で急攻の法があり、これは邪気が胸腹腸胃に壅阻している場合である。 危篤で急救の法があり、これは正気が陰陽心腎に消亡している場合である。 急いで濃煎大飲の湯剤を用いる法があり、これによって火を消し水を救い、旦夕に絶えるのを援ける。 急いで大寒大熱の毒薬を用いる法があり、これによって上吐下瀉させ、一時的に快を得る。 急治の方があり、これによって本を救い、標を救うことを怠らず、標を救うことこそ本を救うこととなる。 『精校本草新編』より

本草新編4

七方論3 緩方 岐伯夫子曰く、「補上治上、制以緩。」緩方とは、遅らせるという意味である。 上が虚であれば上を補うが、緩で制しなければ、薬は下部に走り、補うことができない。上が病であれば上を治すが、緩で制しなければ、薬は下部に流れ、治すことができない。しかし、緩の方法は異なる。 甘味で緩める 方法があり、甘味のものはその作用が必ず遅い。 昇で緩める 方法があり、その気を引き上げて下陥させない。 丸剤で緩める 方法があり、丸剤にして煎じ薬にせず、上焦に留まらせる。膏剤で緩める方法があり、胸膈の間に粘着させる。無毒の薬で緩める方法があり、薬性が穏やかで、効果も急激ではない。緩治の処方があり、上を補って下を補わず、上を治して下を治さないようにする。 緩方は急を治すものではなく、多くは緩症を治すものである。例えば 痿症は必ず緩であるべきであり、脱症は必ず急であるべきである。 『精校本草新編』より

本草新編3

七方論2 小方 病に軽微なものがあり、大きな処方では対応できない場合は、必ず小さな処方で治療する。 軽い病は多くが上部にあり 、上部の病に大方を用いると、重すぎて必ず下部に降りてしまい、上部に昇らない。小方は小さな病を治すものであり、 小さな病は多くが陽にあり 、陽の病に大方を用いると、発散しすぎて必ず正気を消耗させ、邪気を助長してしまう。ゆえに小方を用いる場合は、小さくあるべきであるが、無理に小さくするべきでもない。 病が小さく散らすべきであれば、 柴胡 を多く用いてもよい。病が小さく清めるべきであれば、 麦冬 を多く用いてもよい。病が小さく引き上げるべきであれば、 桔梗 を多く用いてもよい。病が小さく降ろすべきであれば、 厚朴 を多く用いてもよい。 『精校本草新編』より

本草新編2

  七方論1 七方とは、大方、小方、緩方、急方、奇方、偶方、復方である。 大方 大方とは、量の多寡を論じるのではなく、強大さを論じる のである。処方の中で味が重いものが大であり、味が厚いものが大であり、補うものが大であり、攻めるものが大である。薬の量が多いことが大であるとは言えない。 例えば補う場合、その大意は人参を多く用いて君薬とすることにあり、白朮や茯苓を多く用いて臣使薬とすることにはない。攻める場合も同様で、大黄を多く用いて君薬とすることにあり、厚朴や枳実を多く用いて臣使薬とすることにはない。寒熱表散の薬についても、みな同様で、多くの薬を用いることが大方ではない。 君薬は本来少量で良いものではないが、多く用いることができない時もあり、その場合は少量で差し支えない。しかし、少量だからといって君薬ではないと言ったり、少量だからといって大方ではないと疑ったりしてはならない。 『精校本草新編』より

本草新編1

 『精校本草新編』[清]陳士鐸 著 王景 整理 なる書物を入手した。 この『本草新編』は清初に「医聖」と称された傅青主の薬物使用経験集で、270余りの薬物を列挙しています。それぞれ四気五味、帰経、主治について論述しており、その見解は独特で前例がなく、人々を驚かせ、まさに 「医聖」の秘伝の薬物使用法 と言えます。 今回の精校は、中国科学院図書館所蔵の稿本と康熙三十年(1691年)本澄堂初刻の完全版を底本として整理され、多くの誤りが訂正されました。全書の篇目は完全で、内容は正確無比であり、300年間散逸していた多くの条文が再び世に出ることになりました。 傅青主は、明末の遺老として、政治的には生涯清政府との協力を拒否し、私的には南明から授与された官職を受け入れ、 反清活動 に従事した。順治十一年(1654年)、「甲午朱衣道人案」(朱衣道人は傅青主の別名であり、清朝に対抗する義兵を組織し、反乱を起こしたが、後に清軍に捕らえられ、厳しい拷問を受けた。) が発覚し、政治的危険人物として、ほとんどの人は彼を敬遠し、ましてや彼の書物を出版するなどということはなかった。これが『傅青主女科』が道光七年(1827年)、つまり傅青主の死後約150年経って初めて初版本が出版された理由である。傅青主はこれらの医書が公に出版されることは難しいと早くから知っていたため、人を通じてこれらの書物を伝えた。すなわち陳士鐸という、彼が信頼できると見込んだ人物に与えられました。これらの書物は陳士鐸によって改編・加工され、1700年前後に陳士鐸個人の名義で出版されました。 しかし、陳士鐸は決して優れた医者ではなく、これらの医学書の貴重な価値を人々に認識させることはできませんでした。人の地位が低ければ書物も軽んじられるため、「 仙授 」と称するしかありませんでした。これは、災いを避けるため、価値を高めて広めるため、そして出所を明らかにするためでした。したがって陳士鐸のこれらの著作の真の著者は傅青主であると云えます! 『本草新編』が康熙三十年(1691年)に初版が刊行された当時、『本草綱目』が流行しており、さらに一部の古代医家が「陳士鐸遇仙」事件にほとんど関心を示さなかったため、国内での再版は少なかった。不完全な統計によると、日本の寛政元年(1789年)に東園松田義厚が再版したものが唯一である。 ...

本草新編64 黄耆9

 あるいは、黄耆に防風を加えると効果がさらに大きくなるが、黄耆に防風を加えるだけで十分だと思うが、なぜあなたはまず調整( 修治 )してから使うのか、それはあまりにも奇妙ではないか?と問うと、 答えて曰く:黄耆に防風を加える場合、防風の性質と黄耆の性質はまだ互いに区別がある。まず調整して、その性質を調和させ、その手足を制服させ、両者が親密になり、両者が融合し、全く異同の区別がないようにする方が良い。まるで異姓の兄弟が同胞よりも優れているように、互いに助け合ってその全功を収めるのである。 [傍注:さらに巧妙に説明されている。]

本草新編63 黄耆8

 あるいは、黄耆は気を補う聖薬であり、気虚の者にはすべて補うべきであるのに、なぜ 喘満 の病には用いないのかと問う者があった。 それは、満を助長し、増長させることを恐れるからである。先生は陰陽の道を明らかにし、虚実の宜しきを深く知っておられるので、必ず教えがあるはずだ。 曰く、黄耆は気を補うが、脹満を治すことができないのは、黄耆のせいではなく、黄耆の用い方が悪いからである。夫の 大喘大満は、すなわち腎気が絶えようとし、奔騰して上昇するもの で、気の余剰があるように見えるが、実際は気の不足である。古人が人参を大量に用いてこれを治したのは、人参が脹満を助長せず、喘を鎮めるのに優れているからであり、用いるのは実に適切である。しかし、天下には貧しい人が多く、富める人が少ないので、どうして人参を多く備えて急を救うことができようか。古人が黄耆で代用したところ、喘満が増悪し、遂に再び用いることを敢えてせず、書に記して曰く、喘満の者には黄耆を用いてはならないと。自ら誤って人を誤らせることを恐れたのである。 実は黄耆を善用すれば神業のように喘満を治すことができることを誰も知らないのだ。 鐸は異人の伝を受け、隠すことを敢えてしない。黄耆を防風の汁で炒めて用いると、再び脹満が増悪することはない。ただしその製法には実のところ法がある。 防風が少ないと力が弱く、黄耆を制することができず、多いと味が濃く、黄耆を過剰に制する嫌いがあり、気を補うことができないばかりか、かえって気を散らす憂いがある。おおよそ黄耆を一斤用いる場合、防風を一両用いる。まず防風を水十碗で数回煎じ、滓を取り除き、黄耆を二刻浸し、湿らせてから火で炒めて乾燥させる。再び浸して、また炒めて乾燥させ、汁がなくなるまでとする。さらに北五味子三銭を用い、煎じて大碗一杯の湯を作り、また半乾半湿に浸し、再び炒め、火で焙って乾燥させ、地気を帯びさせてから用いる。凡そ人参を一両用いるべきところは、黄耆も一両用いる。喘を鎮めること神の如く、しかも脹満を増悪させない、至妙の法であり、また至便の法でもある。 凡そ黄耆を用いる場合は、すべてこのように製すべきである。古人が黄耆に防風を加えて病を治し、効果を得たとしても、その性質はまだ制伏されておらず、結局は跳梁の虞がある。先に制するに如かず、互いに畏れ忌み、成功すればさらに神業となり、また何の...

本草新編62 黄耆7

 あるいは、黄耆で気を補うと、最初は 膨満感 が生じるが、しばらくすると治まるのはなぜか、と問われた。 これは、気が虚しているところに補われたため、かえって受け付けない状態になったのである。黄耆は気の虚を補うが、胃中では他の臓腑よりも補を望む気持ちが強い。黄耆が胃の中に入ると、その補を奪われることを恐れて、関所を閉じて吐き出そうとしない。これが膨満感が生じる原因である。治療法としては、 黄耆を単独で用いるべきではなく、当帰、川芎、麦門冬の三味を加えて、上下に分散させるようにすれば、膨満感の心配はなくなる。 したがって、黄耆を服用して膨満感が生じるのには二つの症候があり、一つは受け付けない場合、もう一つは受け入れすぎる場合である。 受け入れすぎる場合は、服用後に膨満感が生じるが、しばらくすると楽になる。 受け付けない場合は、最初の膨満感は軽いが、時間が経つとかえって重くなる。これで区別するのが最も容易である。

本草新編61 黄耆6

 あるいは、黄耆で気逆の血を治すという、他に類を見ない素晴らしい発見があったが、四物湯や仏手散で止血して効果があった例もあるのは、どういうわけか、と問われた。 誠にあなたの言う通りである。そもそも 血逆 にも違いがあり、大逆と小逆がある。大逆の場合は、必ず補気して止血しなければならない。 小逆の場合は、調血して経絡に戻すこともできる。四物湯や仏手散で血を治して血が止まるのは、血が補われて経絡に戻ったからである。 血は最も経絡に戻りにくいものだが、なぜ四物湯や仏手散は特に効果があるのか。それは、その血逆が軽かったからに他ならない。逆が軽いのは、気逆が小さいからであり、逆が重いのは、気逆が大きいからである。四物湯や仏手散で血を治して血が安定しても、効果はあるものの、効果が出るのが遅い。補血湯で気を治して血が止まる方が、効果が出るのが速い。 [傍注: 補血で止血する効果は確かに遅く、補気で止血する効果は確かに速い。どちらが得でどちらが損か、容易に判断できる。]

本草新編60 黄耆5

 血逆の症とは、血が逆なのではなく、気が逆なのであり、気が逆になった後に血が逆になるのである。血が逆なのに血分の薬を使い続けると、気が順調でなくなり、血はますます逆になる。だから、気を補って血を安定させる必要があるのだ。 気が逆になれば血も逆になり、気が安定すれば血も安定する、これは変わらない道理である。 血は上行すべきではない。嘔吐、喀血、吐血、鼻血は、すべて逆である。 血は洪水のようなもので、水が逆流すれば天下に氾濫し、血が逆流すれば上焦で沸騰する。ただその血を治すだけでは、どうして平和を保つことができるだろうか?だから、 補血の中に必ず補気の薬を用いる必要がある。 気は血を生じるが、気は血を巡らせるものでもある。この 黄耆補血湯 が千古にわたって特に優れている所以である。 ※黄耆補血湯(黄芪二两 当归一两 肉桂五分)

本草新編59 黄耆4

 あるいは、黄耆は気分の薬であり、あなたはそれを補血の品と考えているが、それならば血虚の症状があるものはすべて黄耆を用いるべきだということになる。なぜ古人は補血の薬として、四物湯や仏手散を多く用い、黄耆で補血するのを見たことがないのか?古人が間違っていたのか? 古人が間違っていたわけではない。ただ血症が異なり、順と逆がある。 順ならば血薬を用いて血を補うべきであり、逆ならば気薬を用いて血を補うべきなのである。 [傍注: 補血を気逆と気順に分けるのは、確かに見識がある。] 

本草新編58 黄耆3

 あるいは、黄耆は気を補うが、かえって膨満感を増すので、黄耆は気を補うべきではないように思われる。その膨満感を解消する薬があるのか、それとも黄耆を使うべきではないのか? 黄耆は気を補う聖薬であり、気が虚しているのに黄耆を使わないなら、他にどんな薬を使うのか?しかし、服用して膨満感を増すのは、黄耆が気を助けるのではなく、黄耆が気を助けないからである。 陰陽に根があって初めて、気血を補うことができる。 陰陽の根が絶えようとしているのに、補薬を服用してもかえって補われない。薬が病を受け入れられないのを見れば、病を補うことはできない。これは黄耆が気を補ってかえって膨満感を増すのは、気を生じさせないためである。しかし、それは生じさせることができないから生じさせないのだから、他にその膨満感を解消する薬があるだろうか。 [傍注: 根のない病は、虚して補を受け付けない。黄耆が生じさせたり助けたりできるものではない。 妙論である。]

本草新編57 黄耆2

 あるいは、黄耆は防風を嫌うが、古人は黄耆が防風を得るとその効能がさらに大きくなると言い、これは相畏・相使するのだと。その説は本当か? 曰く、この説も信じられる部分と信じられない部分がある。黄耆は無毒なのに、なぜ防風を嫌うのか?嫌うと言いながら嫌わないのは、黄耆が補性で防風が散性だからである。合わせて用いると、 補するものは大補に至らず、散するものは大散に至らない ため、効能がかえって大きくなるのだ。 [傍注: 私の愚見では、黄耆が防風を必要とするのは、防風が上下を貫き、全身の気が黄耆によって生じ、黄耆が表に達し、防風が風邪を防ぎ、外からの邪気が黄耆によって拒絶されるからである。]

本草新編56 黄耆1

黄耆は、味が甘く、気はわずかに温かく、気は薄いが味は濃く、昇降が可能で、陰中の陽であり、無毒である。もっぱら気を補う。 手太陰、足太陰、手少陰の経絡に入る。その効用は非常に多いが、特に効果的なのは 補血 である。黄耆は気を補う聖薬であるのに、なぜ補血にこれほど効果があるのか? 気は無形であり、血は有形である。 有形は速やかに生成されず、無形の気を得て初めて生成される。 黄耆を当帰の中に用いることで、自ずと血の生成を助けることができる。しかし、当帰はもともと血を生成できるのに、なぜ黄耆を必要とするのか? 血薬による血の生成は緩やかであり、 気薬による血の生成は速い ことを知らないのか。ましてや気と血の薬を合わせて用いると、血は気を得て速やかに生成されるのだから、何を疑うことがあろうか? あるいは、血は気を得て生成されるのだから、少量の黄耆で十分であり、少なくないとしても当帰と併用すればよい、なぜ補血湯では当帰を少なくして黄耆を倍量用いるのかと疑うかもしれない。 補血湯 は、名前は補血だが、実際には単に気を補うものである。失血の後、血はすでに大量に流れ出ており、補血薬を用いても、生成されるのはわずかな血に過ぎない。どうして五臓六腑を十分に養うことができようか。これは血が失われ、 気も失われようとしている 状態である。血が速やかに生成できない状況で、絶えようとしている気を、もし速やかに救済しなければ、一度解散すればたちまち死に至る。ゆえに補血はまず補気から始めるべきである。 しかし、気を補うと陽が偏旺し、陰が偏衰する恐れがあるため、当帰を加えて血を生成させ、 気が七割生成され、血が三割生成されるようにする ことで、陰陽が抑制され、かえって大きな利益を得る。気を生成し、かつ血を生成する、両者に害はない。 [傍注: 黄耆は気分の薬であり、特に補血に優れている。遠公(陳士鐸)の闡発を経て、その意義はさらに明らかになった。] 補中益気湯 に黄耆を用いるのは、人参を佐薬として成功したものである。人参は黄耆を得て、営衛を補い、腠理を固め、脾胃を健やかにし、痰食を消し、升麻、柴胡を助けて、至陰の中から気を引き上げる。ゆえに益気湯に人参がなければ、引き上げる力が不足し、 黄耆、白朮を多く加えて初めて昇挙できる。 もし人参、白朮を用いて黄耆を減らしたならば、至陰から気を引き上げることはでき...

本草新編55 石膏15

 あるいは、青龍湯には大小の名称があるが、それは石膏の多寡によるのか?と問われた。 曰く、石膏は多く使うべきではないのは、小青龍湯に限ったことではない。小青龍が大青龍と異なるのは、処方に 芍薬 を使うことである。龍の性質は馴れにくいが、芍薬の 酸収 を得れば、 石膏は上昇することができない。芍薬は石膏を抑制するためである。 [傍注:石膏が芍薬を得て抑制されることは、まだ誰も言及していない。] 例えば、小さな龍が初めて角を生やし、人を傷つけることを恐れて、頭を隠し尾を隠すので、小と名付けられる。世人は石膏の猛威を知っているが、芍薬を加えれば、石膏は恐れるに足らないことを誰が知っていようか。ただし、小青龍の石膏の使い方が適切でなければ、害を及ぼすこともあるが、大青龍のように抑制がないほどではない。 また、大青龍がそれほど横暴であるならば、なぜ芍薬を加えないのか?と問われた。曰く、これはまたできないことである。邪が営衛の間にある場合、陽明に入ろうとしているので、大青龍を緊急に使わなければ、雨を降らせて熱を散らすことはできない。もし芍薬の酸収を加えれば、風雲は出会うことができず、収斂が過ぎて、潤いが不足するだろう。これが仲景夫子が特に大青龍湯を制定し、雨で潤すようにした理由であり、単に涼しい風がそよぐだけではいけないのである。 [傍注:さらに人を引き込む。]

本草新編54 石膏14

 あるいは、白虎湯は先生によって解明され、微に入り細に入り、不明な点はないが、石膏が大小青龍湯に使われることについてはまだ議論されていない。白虎は人を殺すことができるが、青龍はそうではないのか?と問われた。 曰く、龍の性質は馴れにくく、不適切に使えば、人を殺すことは白虎と同じである。同じ石膏なのに、どうして龍と虎に分けて呼ばれるのか、それは人がどう使うかによるのである。 熱散の中に使えば 青龍 と名付けられ、寒散の中に使えば 白虎 と名付けられる。 石膏は非常に冷たいので、熱の中に使えば熱を解し、その冷たさを恐れることはない。寒の中に使えば、冷たすぎ、熱を退けることはできるが、常にその変化を生じる。白虎湯の方が青龍よりも猛烈であるように思える。 [傍注:絶妙な論であり、また絶奇な論である。] しかし、邪が胃にある場合は、白虎でなければ熱を解することはできない。邪がまだ胃に入っておらず、胃に入ろうとしている場合は、青龍でなければ熱を解することはできない。ただし、 石膏は桂枝、麻黄を得て、上昇する勢いが強いので、青龍湯の中では少量でなければならず 、多く使うべきではない。白虎湯の中では、石膏を増量できるのとは異なる。

本草新編53 石膏13

 あるいは、石膏は胃火を瀉すことができるが、胃火が瀉された後、なぜまた知母を使う必要があるのか?先生は知母が石膏を助ける功績を称賛しているが、これも偏った説ではないか?と問われた。 曰く、石膏は胃火を瀉して腎水を救うが、 胃火を瀉しても腎火を瀉すことはできない。 胃は腎の関門であり、胃火が息ヤんでも腎火が依然として盛んであれば、関門の道は平らになり烽火は消えても、内火が燃え盛っているようなもので、どうして安寧の象であろうか?故に、胃火を瀉すならば、腎火も瀉すべきである。腎火を瀉すには、知母でなければならない。さらに妙なることに、 知母は腎火を瀉すだけでなく、胃火も瀉すことができる。 故に石膏と併用すれば、互いに同心で、腎を顧みれば胃も顧みることができ、黄柏のように腎だけを瀉して胃を瀉さないのとは異なる。 [傍注:非常に精妙に弁別している。]

本草新編52 石膏12

 あるいは、丹渓を退け、黄柏、知母の併用を退けるのは、知母は寒涼を助けても人を殺すべきではないということだが、先生は知母が石膏を助けて人を活かすことができると称賛している。これはまたどういうことか?と疑われた。 曰く、胃火が盛んな場合は、元々胃火を直接降ろすべきであり、石膏を使うべきで、知母を更に使うべきではない。しかし、胃火が盛んになるのは、腎水が衰えているためであり、水が虚して火を抑制できないのである。胃火が盛んになれば、必ず腎水が枯渇し、水が尽きれば火の勢いは天を焦がし、人はたちまち死ぬだろう。 石膏で胃火を瀉すのは、まさに腎水を緊急に救うためである。 しかし、単に腎水を救うだけでは、腎火が増熱し、胃火は依然として旺盛で、すぐに消えないだろう。故に、 さらに知母を使って、一時的に腎中の火を退かせ れば、胃火は仲間を失い、容易に消し去ることができるだろう。 この石膏が必ず知母の助けを必要とするのは、一時的な便宜策であり、永久的な計画ではない。丹渓は腎を瀉すために長期間使い、腎を救うために一時的に使うのとは比較できない。私が丹渓を退けるのは、黄柏、知母を退けるのではない。 [傍注:丹渓を退けるのであって、黄柏、知母を退けるのではない。]

本草新編51 石膏11

 あるいは、寒涼の薬は人を殺すことが多いが、石膏ほどではない。黄柏、知母でさえ、その横暴さは及ばない。 黄柏、知母を退けて石膏を捨てないのはなぜか? と疑われた。 曰く、石膏は死を救う薬である。胃火が極熱に達すれば、石膏でなければ降ろすことはできない。胃火が降ろせなければ、必ず発狂して死ぬだろう。石膏でそれを救えば、死症はたちまち生に転じる。 石膏を使って人を殺す者は、胃火でないのに妄用したのである。 人体の火で最も激しいのは、胃火と腎火である。 胃火は瀉すべきであり、腎火は補すべきである。石膏で胃火を瀉さず、かえって石膏で腎火を瀉せば、どうして人を殺さないことがあろうか?しかし、腎火と胃火の補瀉の違いは、補すべきなのに瀉す。これも丹渓の黄柏、知母が腎火を降ろすという説に誤解されたためである!寒涼の薬は、人を活かさないことはない。それを誤用して人を殺すのは、石膏に何の過ちがあろうか? [傍注:快心の論である。]

本草新編50 石膏10

 あるいは、石膏は狂気を鎮め、胃中の火を鎮めるものだが、どうして心中の狂気も鎮めることができるのか?と疑われた。 心中の狂気は、胃中の火から起こるのである。 胃火を救うのは、まさに心中の狂気を救うことである。心は火の臓であり、胃火は恐れるものではないはずである。しかし、胃熱で心が発狂するのは、まるで同じ船に乗っていた者が、一時的に略奪され、異常事態になったようなもので、もし討伐しなければ、心宮はどうして安んじることができようか?これが狂気を救うには必ず火を瀉す理由である。 [傍注:狂気を救うには必ず火を瀉すのは、一時的な便宜である。]

本草新編49 石膏9

 あるいは、発狂の病で、石膏を少量使い、人参を多く使って治る場合があるが、これはまたどういうことか?と疑われた。 曰く、発狂には 虚火 と 邪火 の違いがある。邪火による発狂は、必ず多量の石膏、人参を使って、瞬時に回復させるべきである。 虚火による発狂は、人参を専門に使い、瞬時に乱れを鎮めるべきである。石膏は必ず少量使うべきであり、決して併用すべきではない。 もし虚実邪正が不明確で、薬の使い方が間違っていれば、服用後すぐに人を殺さないとは云えない。 [ 傍注: その通りである。しかし、虚実邪正をどう弁別するのか?舌を診る方法を捨てて、別の弁証法を求めることはできない。 正虚で発狂する者は精神が乱れるが、舌は必ず潤滑である。 邪実で発狂する者は精神が昂ぶるが、舌は必ず赤黄色で、非常に乾燥して亀裂がある。これで弁証すれば、どうして誤ることがあろうか?]

本草新編48 石膏8

 あるいは、石膏の胃火に、1両使ってもまだ解けず、発狂の兆候がある場合、どのような薬でそれを解くのか?と疑われた。 曰く、石膏以外に方法はない! 発狂の病は、胃火が極熱に達し 、通常の治療法では治せないものである。必ず石膏を2、3両、人参も必ず2、3両使うべきであり、以前の説のように石膏を10のうち7、人参を10のうち3にこだわるべきではない。 [傍注:常を知り、変を知ってこそ、起死回生の手段が見える。] 火が極盛な者は、土も極衰している のである。人参で元気を補わず、石膏だけでその火炎を救おうとすれば、失敗しないとは云えないだろう。このような病は、必ず高所に登って歌い、服を捨てて走り、水を見ると入り、大声で罵り叫び、精神が外に飛び出そうとする。これは存亡の危機であり、変法で治療せざるを得ない。もし前の薬を服用して少しでも安んじれば、生機があるが、そうでなければ、たとえ多量の石膏、人参を使っても、救うことができないだろう。

本草新編47 石膏7

 あるいは、石膏は燎原の火のような火を瀉すために多く使うべきであると思われる。しかし、多すぎると胃を傷つける恐れがある。どうすれば胃を傷つけずに、火を速やかに消すことができるのか?と問われた。 曰く、燎原の火は地上に生じ、胃中の火は土中に起こる。石膏で胃中の火を消すのは、水で燎原の火を消すようなものである。しかし、水で燎原の火を消しても、地面を傷つけることはないが、石膏で胃中の火を消すと、必ず土を傷つける。 土とは胃土のことである。胃土は火がなければ生じないのに、どうしてかえって水でそれを滅ぼすのか?しかし、胃火が盛んなのは、胃中の真火が盛んなのではなく、胃中の邪火が盛んなのである。邪火は水でなければ消すことができないので、やむを得ず大量の石膏を使って、一時的にその火を消すのである。 また、 胃火が盛んなのは、胃土が衰えているのである。 胃火が盛んになれば、胃土はますます衰え、胃土が衰えれば、さらに寒涼なもので火を瀉す。火が衰えれば、胃はさらに衰えるだろう。 故に、 火を瀉す中に、土を補うことが急務である。 もし単に火を瀉すだけでは、土が崩壊しないではおられない。治療法としては、 人参を石膏と併用すべきである。 おおよそ石膏を10のうち7使い、人参を10のうち3使えば、互いに助け合い、互いに作用する。火は容易に消え、胃土も傷つかず、陽が亡くなるような災いは決してないだろう。 [傍注:石膏で火を瀉し、人参で土を救うのは、実に妙論妙法である。]

本草新編46  石膏6

あるいは、石膏は多く使えば人の命を救うことができると思われた。先生は以前の過度な心配は不要であり、結局石膏は少なく使うべきで、多く使うべきではないと云われるが‥‥。 曰く、石膏は元々多く使うべきではない。石膏は非常に冷たいので、多く使うことを戒めるのは、その常識から論じているのである。 胃火 が非常に旺盛な場合は、少なく使うことを戒めるのは、その変化を心配するからである。多く使うべきではないという心を持っていれば、軽々しく投与して命を失うことはないだろう。少なく使うべしという心を持っていれば、体を亡ぼすことはないだろう。多く使うべきではないことを知ってから、多く使って奇跡を起こすことができれば、死を転じて生とし、危を転じて安とすることができるだろう。

本草新編45  石膏5

あるいは、石膏は 白虎 に例えられ、明らかに人を殺すものであり、慎重に使うべきであると教えられている。今また、火が重い場合は、多量の石膏でなければならないと言うが、私はまた天下に石膏を軽々しく使う災いを招くのではないかと恐れる。人を救うどころか、かえって人を害するのではないか? ああ!症状を論じるには完全でなければならず、薬を論じるには知識がなければならない。天下にこのような症状があれば、この治療法をと論じるべきである。どうして石膏の猛威を恐れ、その殺人の威力を避け、その人を生かす益を明らかにしないのであろうか? 石膏には功罪があるが、それは症状の判断が明確であるかどうかにかかっており、石膏の多寡ではない。 [傍注:経権達変こそが通医である。] もし症状の判断が誤っていれば、多く使えば人を殺し、少なく使っても人を殺さないとは限らない。もし症状の判断が正確であれば、少なく使っても、多く使っても人を救うであろう。それならば、人は症状を弁別すれば良いのであって、どうして石膏の使用を忌避する必要があろうか。

本草新編44  石膏4

あるいは、石膏は胃火を瀉し、さらに知母で腎火を瀉し、麦冬で肺火を鎮めるので、火は速やかに退き、熱は完全に解消されるはずなのに、なぜ 白虎湯 を使うと、かえって悪化することが多いのか?と疑われた。 曰く、これは白虎湯のせいではなく、白虎湯の使い方が悪いせいである。火の勢いは異なり、 燎原の火もあれば、延焼の火もある。 延焼の火は勢いが衰えているが、燎原の火は勢いが盛んである。延焼を救うもので燎原を救おうとすれば、勢いはますます消し去ろうとするほど、その光炎を増すだろう。 人体の胃火も異なり、軽いものもあれば重いものもある。軽いものは延焼の火のようで、少量の白虎湯でその熱を解消できる。重いものは燎原の火のようで、多量の白虎湯でなければ、その勢いを滅ぼすことはできない。もし軽いものを治す方法で重いものを治そうとすれば、どうして火の勢いが天を焦がすほどにならないことがあろうか?陽が亡くなるか、発狂するかである。

本草新編43  石膏3

あるいは、石膏の胃火に、さらに知母を加えて腎火を瀉すのはなぜか?と問われた。 胃火が非常に盛んになると、腎水が枯渇する。石膏で胃火を瀉すのは、実際には腎水を救うためである。しかし、 胃火が腎水を枯渇させると、相火は必ず上昇して胃火を助けるだろう。 胃火は相火を得てさらに激しくなる。単に胃火を瀉しても、相火が退かなければ、胃火には源があり、容易に消し去ることはできず、ますますその炎を増すだろう。胃火を瀉すと同時に相火を瀉せば、胃火は仲間を失い、その火は散りやすく、大雨が降り注ぎ、雷が鳴れば、その炎熱の威勢は自然に速やかに解消される。これが、石膏で胃中の火を瀉す場合、必ず知母で腎中の火を瀉す理由である。 [傍注:腎火を瀉すのは、まさに胃火を瀉すためであり、妙論は奇抜である。]

本草新編42  石膏2

あるいは、石膏を使って真の胃火を治療する場合、石膏単独で良いのではないか、なぜ張仲景先生は必ず人参、麦冬を加えるのか?と問われた。 曰く、 胃火が盛んな者は、胃土が衰えている のである。胃火は、胃土を傷つけないことはない。胃土を傷つければ、必ず胃気を傷つけるだろう。 石膏湯 に人参を加えるのは、胃火を助けるのではなく、胃土を顧みるためである。胃土が傷つかなければ、胃気も失われず、肺気を顧みる必要がないように思える。しかし、 胃火が上昇すれば、必ず肺金が傷つく。 人参で胃を顧みても、麦冬で肺を養わなければ、胃は必ず肺金の母を救うために胃気を漏らし、胃気はやはり損なわれる。人参を使っても、使わないのと同じである。 [傍注:胃土を顧み、肺金を顧みる、その意味は実に精妙である。] 故に、さらに麦冬を加え、人参と併用して、石膏の瀉火を助ける。火が瀉され、肺金が養われ、胃土に気を消耗させなければ、胃気はさらに養われる。これが、 石膏を使った後に人参を加え、人参を使った後に麦冬を加える理由 である。

本草新編41  石膏1

石膏は、味が辛甘で、性質は非常に冷たく、重く沈み、降下する。陰中の陽であり、毒はない。生で使うのが良く、火で焼くと効果がない。 肺、胃、三焦に入る。 汗を出して解肌し、頭痛を治し、脾臓を和らげ、喉の渇きを止める。 風邪が陽を傷つけ、寒邪が陰を傷つける場合でも、肌表を解して治癒する。 胃熱で食べ過ぎる場合も、胃熱で食べられない場合も、それぞれ胃火を瀉して治癒する。 痰火の積滞を取り除き、胃の痛みを止め、発狂を鎮め、譫語を鎮めることができる。 これは 降火の神剤 であり、 瀉熱の聖薬 である。 仲景張夫子はこれを 白虎 と名付け、軽々しく使うべきではないが、使ってはならないとは言っていない。しかし、世人はこれを恐れ、まるで白虎のように、一度も使うことを敢行せずして、死症に遭遇した場合や危症に遭遇した場合に、どうして蘇生したり、再び安んじたりすることができるだろうか? 石膏が火を降ろすのは、 胃火 を降ろすのであって、臓火を降ろすのではない。石膏が熱を瀉すのは、 真熱 を瀉すのであって、仮熱を瀉すのではない。その 胃火真熱を弁別すれば、石膏を使っても間違いはないだろう。 胃火が初期の時には、必ず口が渇き、水を飲むと少し楽になり、汗は雨のように流れ、舌は非常に荒れ、水を飲んでも口は必ず乾き、目は赤くなり、精神は不安定になる。このような症状が見られる場合、それが確かに胃火であって臓火でないならば、石膏を使っても躊躇する必要はない。 真熱の者は、舌に必ず刺が生じ、刺が生じなくても、舌苔は必ず黄色で亀裂があり、非常に喉が渇いて水を求め、 10杯以上の水を飲んでも足りず 、軽ければ譫語を発し、ひどければ罵詈雑言を言い、水を見ると入り、服を捨てて走り、高所に登って叫び、発狂して人を知らない。これが真熱である。この場合は、石膏を大量に灌注しても疑う必要はない。 もし口が渇いてもそれほどではなく、水を与えても飲まず、言葉は乱れても罵詈雑言を言わず、体は熱くても躁動せず、上半身は熱を嫌っても下半身は非常に冷たい場合は、すべて 仮熱 の症状であり、軽々しく石膏を使うべきではない。 [傍注:火熱の症状を非常に明確に区別しており、どうして疑念を抱くことがあろうか。これで火熱を弁別すれば、決して人を殺すことはなく、どうして虎のように恐れ、死を見捨てて救わないことがあろうか?石膏は実際に死を救う薬で...

本草新編40  人参23

呂道人の総評曰く、今の人は古人のように強壮ではない。病気がない時でも、人参で気を補うことは欠かせないのだから、病気を抱えている時には、なおさら真気を消耗するだろう。そんな時は、 人参は使うべきであるだけでなく、多く使うべきである! しかし、人参の効用を知らず、むやみに使って、その要点をつかめなければ、人参の益を得られず、反って人参の損害を受けることが多い。 陳子遠公はこれを憐れみ、人参の効用を弁明し、世人に告げようと、人参を著し、それによって『本草新編』を著したのである。 私はこれを読んでその奇妙さに驚き、 逐条評価したが、賛嘆はあっても褒貶はない。その議論が至正に折衷しており、偏った言葉ではないからである。ましてや『本草新編』とはどんな書物か?一言の誤りが、万世を殺すことになりかねないのだから、自分の好みに偏することができるだろうか?道人は心からこの書物に酔いしれ、またこのように総評したのである。

本草新編39  人参22

あるいは、傷寒の下痢で、毎日十数回、下痢が多くて陰を失い、脈は虚しているはずなのに、虚ではなく反って実している。これも人参でその虚を補えるのか? その下痢がすでに多く、脈が虚ではなく反って実しているのは、 脈の正気が実しているのではなく、脈の邪気が実しているのである。 邪気が実していると補正できないように思えるが、 正虚でますます邪盛 になっていることを知らず、急いでその正気を補わなければ、邪盛で正は必ず脱するだろう。この症は 死症 であり、死の中から生を求めるには、人参以外に薬はない。しかし、人参だけを使い、水分を分消する薬を併用しなければ、人参も並外れた功績を立てることはできない。人参一、二両に茯苓五、六銭を加えて服用すれば、正気が脱せず、水邪も止まるだろう。