スキップしてメイン コンテンツに移動

本草新編63 黄耆8

 あるいは、黄耆は気を補う聖薬であり、気虚の者にはすべて補うべきであるのに、なぜ喘満の病には用いないのかと問う者があった。

それは、満を助長し、増長させることを恐れるからである。先生は陰陽の道を明らかにし、虚実の宜しきを深く知っておられるので、必ず教えがあるはずだ。

曰く、黄耆は気を補うが、脹満を治すことができないのは、黄耆のせいではなく、黄耆の用い方が悪いからである。夫の大喘大満は、すなわち腎気が絶えようとし、奔騰して上昇するもので、気の余剰があるように見えるが、実際は気の不足である。古人が人参を大量に用いてこれを治したのは、人参が脹満を助長せず、喘を鎮めるのに優れているからであり、用いるのは実に適切である。しかし、天下には貧しい人が多く、富める人が少ないので、どうして人参を多く備えて急を救うことができようか。古人が黄耆で代用したところ、喘満が増悪し、遂に再び用いることを敢えてせず、書に記して曰く、喘満の者には黄耆を用いてはならないと。自ら誤って人を誤らせることを恐れたのである。実は黄耆を善用すれば神業のように喘満を治すことができることを誰も知らないのだ。鐸は異人の伝を受け、隠すことを敢えてしない。黄耆を防風の汁で炒めて用いると、再び脹満が増悪することはない。ただしその製法には実のところ法がある。

防風が少ないと力が弱く、黄耆を制することができず、多いと味が濃く、黄耆を過剰に制する嫌いがあり、気を補うことができないばかりか、かえって気を散らす憂いがある。おおよそ黄耆を一斤用いる場合、防風を一両用いる。まず防風を水十碗で数回煎じ、滓を取り除き、黄耆を二刻浸し、湿らせてから火で炒めて乾燥させる。再び浸して、また炒めて乾燥させ、汁がなくなるまでとする。さらに北五味子三銭を用い、煎じて大碗一杯の湯を作り、また半乾半湿に浸し、再び炒め、火で焙って乾燥させ、地気を帯びさせてから用いる。凡そ人参を一両用いるべきところは、黄耆も一両用いる。喘を鎮めること神の如く、しかも脹満を増悪させない、至妙の法であり、また至便の法でもある。

凡そ黄耆を用いる場合は、すべてこのように製すべきである。古人が黄耆に防風を加えて病を治し、効果を得たとしても、その性質はまだ制伏されておらず、結局は跳梁の虞がある。先に制するに如かず、互いに畏れ忌み、成功すればさらに神業となり、また何の喘病が治せないことがあろうか。

[傍注: 喘を治すには人参を用いるべきであり、製した黄耆を用いて喘を治すのは、貧しい藜藿の人を救うためである。これは遠公の一片の婆心である。もし富貴膏粱の子であれば、やはり人参を用いるのが上策であり、費用を惜しんで黄耆を用いてはならない。蓋し貧しい藜藿の者はその臓腑に大きな損傷がないか、損傷があっても富貴膏粱の者と同じように治すべきであり、人参を捨てて黄耆だけを求めるのは恐らく適切ではない。蓋し人参と黄耆は同じく気を補うものではあるが、黄耆は無何有の郷に気を生じさせることはできないからである。]

コメント

このブログの人気の投稿

ブログの開設

 昭和45年、30歳の時に氷見で漢方専門薬局を開業し、それから57年たちました。もう今年は米寿を迎えます。 昭和の年代はかなり自由に漢方薬局で処方が組めました。人口が多かった頃は顧客も多く、無我夢中の成壮年期を過ごしてきました。日本漢方から中医学への転換もありました。どっと流入してきた中医学書のなかで悪戦苦闘した毎日でした。みな楽しい思い出です。 しかし人口が減り、私の役割も終わったようです。2020年のコロナ流行時に薬局を閉鎖し、今は隠居生活を楽しんでいますが、出来得る限りは日本の漢方業界を応援していきたく思っています。 見渡す限り、漢方/中医学の世界は誠に悲しむべき実態で、今にも亡びそうです。「 このままでは日本の漢方・中医学は消えていってしまう! 」とばかり「 漢方/中医学 」のフェイスブックを立ち上げて奮闘努力をしていますが、寿命の尽きるまでの数年間を、こちらのブログで燃やしたいと思っています。

本草新編22 人参5

 「 本草新編21 」までは「 漢方まんだら 」にて発表してきましたが、今後は本ブログ「 漢方/中医まんだら 」にて継続発表していきます。 人参5 ある人が尋ねた。「人参は純粋な品であるのに、なぜ邪を攻めるのに使うのか?」と。人参は邪を攻める聖薬であることを知らないのだ。 凡そ人の身に邪気が入るのは、皆、気が虚しているためであり、皮毛を外から守ることができず、その後、風、寒、暑、湿、熱、燥の六気が初めて侵入できるのである。 邪は虚から入り、邪を攻めるのに人参で気を補わずしてどうしてできるだろうか? しかし、人参を用いて邪を攻めるには、実際には方法があり、軽々しく用いるべきではない。邪が初めて侵入したときは、少量の人参を補助として用いるのが良く、邪が深く侵入したときは、多量の人参を主として用いるのが良く、邪が去ろうとするときは、専ら人参を主として用いるのが良い。多寡の間を斟酌し、前後の際を審量すれば、どうして人参を用いることができず、邪を攻めることができないと云えるだろうか?故に邪がその気を逼迫し、至陰の中に陥れたとき、人参なくしてどうして至陽の上に昇らせることができようか。 邪がその気を逼迫し、表裏の間に拒んだとき、人参なくしてどうして腠理の外に散らすことができようか。邪がその気を逼迫し、胸膈の上に逆らったとき、人参なくしてどうして膀胱の下に瀉すことができようか。 近頃の人は人参を用いるのを見ると、病家はまず驚き、病人がそれを知ると、死の不安を持ち、生の気を持たず、どうして効果が得られようか?誰が邪の集まるところ、その気は必ず虚していることを知っているだろうか。邪を攻める中に人参を用いることで、初めて万全を期すことができる。私はこれを語らずにはいられない、万世に人を活かすために。 [傍注:人参は邪を攻める薬ではないが、邪気が盛んで正気が虚している場合、邪を攻める薬に補助として加えれば、攻補両方が勝つことができる。邪が軽い者は、用いる必要はない。人が壮実である者は、用いる必要はない。ただ 邪の勢いが重く、人の気が虚している場合、攻薬の中に人参を加えるしかない。それは攻を助けるのではなく、その虚を補うためであり、虚を補えば邪は自ずと退くのである。 ]

本草新編35  人参18

あるいは 陽明病 について尋ねる。譫語して潮熱を発し、脈は滑にして疾、明らかに邪気余りあり。 承気湯 を用いても大便なく、脈はかえって微渋にして弱に変わる。邪気盛んにして津液乾くにあらずや?邪気を攻めんとすれば正気益々虚し、正気を補わんとすれば邪気は未だ散ぜず。この際も人参を用いるべしや? ああ!人参を捨ててまた何をもって命を奪うべけんや?ただ人参を用いるも必ず生を保証するにあらず。法は人参一両、大黄一銭を用い、同煎してこれを治す。 大便を得て気が脱落せざる者は即ち生じ、然らざる者はその不死を信じるべからず。