あるいは、黄耆は気を補う聖薬であり、気虚の者にはすべて補うべきであるのに、なぜ喘満の病には用いないのかと問う者があった。
それは、満を助長し、増長させることを恐れるからである。先生は陰陽の道を明らかにし、虚実の宜しきを深く知っておられるので、必ず教えがあるはずだ。
曰く、黄耆は気を補うが、脹満を治すことができないのは、黄耆のせいではなく、黄耆の用い方が悪いからである。夫の大喘大満は、すなわち腎気が絶えようとし、奔騰して上昇するもので、気の余剰があるように見えるが、実際は気の不足である。古人が人参を大量に用いてこれを治したのは、人参が脹満を助長せず、喘を鎮めるのに優れているからであり、用いるのは実に適切である。しかし、天下には貧しい人が多く、富める人が少ないので、どうして人参を多く備えて急を救うことができようか。古人が黄耆で代用したところ、喘満が増悪し、遂に再び用いることを敢えてせず、書に記して曰く、喘満の者には黄耆を用いてはならないと。自ら誤って人を誤らせることを恐れたのである。実は黄耆を善用すれば神業のように喘満を治すことができることを誰も知らないのだ。鐸は異人の伝を受け、隠すことを敢えてしない。黄耆を防風の汁で炒めて用いると、再び脹満が増悪することはない。ただしその製法には実のところ法がある。
防風が少ないと力が弱く、黄耆を制することができず、多いと味が濃く、黄耆を過剰に制する嫌いがあり、気を補うことができないばかりか、かえって気を散らす憂いがある。おおよそ黄耆を一斤用いる場合、防風を一両用いる。まず防風を水十碗で数回煎じ、滓を取り除き、黄耆を二刻浸し、湿らせてから火で炒めて乾燥させる。再び浸して、また炒めて乾燥させ、汁がなくなるまでとする。さらに北五味子三銭を用い、煎じて大碗一杯の湯を作り、また半乾半湿に浸し、再び炒め、火で焙って乾燥させ、地気を帯びさせてから用いる。凡そ人参を一両用いるべきところは、黄耆も一両用いる。喘を鎮めること神の如く、しかも脹満を増悪させない、至妙の法であり、また至便の法でもある。
凡そ黄耆を用いる場合は、すべてこのように製すべきである。古人が黄耆に防風を加えて病を治し、効果を得たとしても、その性質はまだ制伏されておらず、結局は跳梁の虞がある。先に制するに如かず、互いに畏れ忌み、成功すればさらに神業となり、また何の喘病が治せないことがあろうか。
[傍注: 喘を治すには人参を用いるべきであり、製した黄耆を用いて喘を治すのは、貧しい藜藿の人を救うためである。これは遠公の一片の婆心である。もし富貴膏粱の子であれば、やはり人参を用いるのが上策であり、費用を惜しんで黄耆を用いてはならない。蓋し貧しい藜藿の者はその臓腑に大きな損傷がないか、損傷があっても富貴膏粱の者と同じように治すべきであり、人参を捨てて黄耆だけを求めるのは恐らく適切ではない。蓋し人参と黄耆は同じく気を補うものではあるが、黄耆は無何有の郷に気を生じさせることはできないからである。]
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