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本草新編8

十剤論1
十剤とは、宣剤、通剤、補剤、瀉剤、軽剤、重剤、滑剤、渋剤、燥剤、湿剤をいう。

一論、宣剤。岐伯夫子曰く、「宣は壅を除去できる」と。また曰く、「木鬱は達し、火鬱は発し、土鬱は奪し、金鬱は泄し、水鬱は折す」と、これらはすべて宣することである。

気鬱すれば咽喉頭目口舌の間を上通できず、血鬱すれば胸腹脾胃経絡の内を下達できない。ゆえに上ではしゃっくり、或いは咳、或いは痰、或いは嘔吐の症状が生じ、中では痞、或いは満、或いは塞、或いは痛、或いは飽、或いは脹の病が起こり、下では腫、或いは瀉、或いは利、或いは結、或いは蓄、或いは黄の病が発する。

もし宣剤で気をがらせなければ、気は壅塞して不快となり、血を散らさなければ、血は凝滞して流れなくなる。すれば必ず木鬱は伸びやかになり、火鬱は発散し、金鬱は疎泄し、水鬱は曲折し、土鬱は殺奪される。

鬱症は五つだけではないし、宣鬱の方法も二つだけではない。内側に鬱するもの、外側に鬱するもの、内でも外でもないところに鬱するものがある。内鬱するものは、七情の傷である。外鬱するものは、六淫の傷である。内でも外でもないところに鬱するものは、転倒墜落の傷である。

七情の傷を治す者は、その結を開く。六淫の傷を治す者は、その邪を散らす。転倒墜落の傷を治す者は、その瘀を活かす。これらはすべて宣の義を助けるものである。

宣は鬱を開き、鬱を解くだけではない。邪が上にある者は、宣して出すことができる。邪が中にある者は、宣して和することができる。邪が下にある者は、宣して泄することができる。邪が内にある者は、宣して散らすことができる。邪が外にある者は、宣して表に出すことができる。宣の義は大きい。

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ブログの開設

 昭和45年、30歳の時に氷見で漢方専門薬局を開業し、それから57年たちました。もう今年は米寿を迎えます。 昭和の年代はかなり自由に漢方薬局で処方が組めました。人口が多かった頃は顧客も多く、無我夢中の成壮年期を過ごしてきました。日本漢方から中医学への転換もありました。どっと流入してきた中医学書のなかで悪戦苦闘した毎日でした。みな楽しい思い出です。 しかし人口が減り、私の役割も終わったようです。2020年のコロナ流行時に薬局を閉鎖し、今は隠居生活を楽しんでいますが、出来得る限りは日本の漢方業界を応援していきたく思っています。 見渡す限り、漢方/中医学の世界は誠に悲しむべき実態で、今にも亡びそうです。「 このままでは日本の漢方・中医学は消えていってしまう! 」とばかり「 漢方/中医学 」のフェイスブックを立ち上げて奮闘努力をしていますが、寿命の尽きるまでの数年間を、こちらのブログで燃やしたいと思っています。

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