スキップしてメイン コンテンツに移動

本草新編56 黄耆1

黄耆は、味が甘く、気はわずかに温かく、気は薄いが味は濃く、昇降が可能で、陰中の陽であり、無毒である。もっぱら気を補う。

手太陰、足太陰、手少陰の経絡に入る。その効用は非常に多いが、特に効果的なのは補血である。黄耆は気を補う聖薬であるのに、なぜ補血にこれほど効果があるのか? 気は無形であり、血は有形である。有形は速やかに生成されず、無形の気を得て初めて生成される。
黄耆を当帰の中に用いることで、自ずと血の生成を助けることができる。しかし、当帰はもともと血を生成できるのに、なぜ黄耆を必要とするのか? 血薬による血の生成は緩やかであり、気薬による血の生成は速いことを知らないのか。ましてや気と血の薬を合わせて用いると、血は気を得て速やかに生成されるのだから、何を疑うことがあろうか?

あるいは、血は気を得て生成されるのだから、少量の黄耆で十分であり、少なくないとしても当帰と併用すればよい、なぜ補血湯では当帰を少なくして黄耆を倍量用いるのかと疑うかもしれない。

補血湯は、名前は補血だが、実際には単に気を補うものである。失血の後、血はすでに大量に流れ出ており、補血薬を用いても、生成されるのはわずかな血に過ぎない。どうして五臓六腑を十分に養うことができようか。これは血が失われ、気も失われようとしている状態である。血が速やかに生成できない状況で、絶えようとしている気を、もし速やかに救済しなければ、一度解散すればたちまち死に至る。ゆえに補血はまず補気から始めるべきである。
しかし、気を補うと陽が偏旺し、陰が偏衰する恐れがあるため、当帰を加えて血を生成させ、気が七割生成され、血が三割生成されるようにすることで、陰陽が抑制され、かえって大きな利益を得る。気を生成し、かつ血を生成する、両者に害はない。

[傍注: 黄耆は気分の薬であり、特に補血に優れている。遠公(陳士鐸)の闡発を経て、その意義はさらに明らかになった。]

補中益気湯に黄耆を用いるのは、人参を佐薬として成功したものである。人参は黄耆を得て、営衛を補い、腠理を固め、脾胃を健やかにし、痰食を消し、升麻、柴胡を助けて、至陰の中から気を引き上げる。ゆえに益気湯に人参がなければ、引き上げる力が不足し、黄耆、白朮を多く加えて初めて昇挙できる。もし人参、白朮を用いて黄耆を減らしたならば、至陰から気を引き上げることはできない。ゆえに気虚の人は、病気の種類にかかわらず、すべて黄耆を併用すべきであり、血虚の人は特に多く用いるべきである。ただし、骨蒸労熱と中満の人は禁忌であるが、これも症例に応じて慎重に判断すべきである。

[傍注: 黄耆がなければ至陰から気を引き上げられないという論は、独創的でありながら至言である。]

コメント

このブログの人気の投稿

ブログの開設

 昭和45年、30歳の時に氷見で漢方専門薬局を開業し、それから57年たちました。もう今年は米寿を迎えます。 昭和の年代はかなり自由に漢方薬局で処方が組めました。人口が多かった頃は顧客も多く、無我夢中の成壮年期を過ごしてきました。日本漢方から中医学への転換もありました。どっと流入してきた中医学書のなかで悪戦苦闘した毎日でした。みな楽しい思い出です。 しかし人口が減り、私の役割も終わったようです。2020年のコロナ流行時に薬局を閉鎖し、今は隠居生活を楽しんでいますが、出来得る限りは日本の漢方業界を応援していきたく思っています。 見渡す限り、漢方/中医学の世界は誠に悲しむべき実態で、今にも亡びそうです。「 このままでは日本の漢方・中医学は消えていってしまう! 」とばかり「 漢方/中医学 」のフェイスブックを立ち上げて奮闘努力をしていますが、寿命の尽きるまでの数年間を、こちらのブログで燃やしたいと思っています。

本草新編22 人参5

 「 本草新編21 」までは「 漢方まんだら 」にて発表してきましたが、今後は本ブログ「 漢方/中医まんだら 」にて継続発表していきます。 人参5 ある人が尋ねた。「人参は純粋な品であるのに、なぜ邪を攻めるのに使うのか?」と。人参は邪を攻める聖薬であることを知らないのだ。 凡そ人の身に邪気が入るのは、皆、気が虚しているためであり、皮毛を外から守ることができず、その後、風、寒、暑、湿、熱、燥の六気が初めて侵入できるのである。 邪は虚から入り、邪を攻めるのに人参で気を補わずしてどうしてできるだろうか? しかし、人参を用いて邪を攻めるには、実際には方法があり、軽々しく用いるべきではない。邪が初めて侵入したときは、少量の人参を補助として用いるのが良く、邪が深く侵入したときは、多量の人参を主として用いるのが良く、邪が去ろうとするときは、専ら人参を主として用いるのが良い。多寡の間を斟酌し、前後の際を審量すれば、どうして人参を用いることができず、邪を攻めることができないと云えるだろうか?故に邪がその気を逼迫し、至陰の中に陥れたとき、人参なくしてどうして至陽の上に昇らせることができようか。 邪がその気を逼迫し、表裏の間に拒んだとき、人参なくしてどうして腠理の外に散らすことができようか。邪がその気を逼迫し、胸膈の上に逆らったとき、人参なくしてどうして膀胱の下に瀉すことができようか。 近頃の人は人参を用いるのを見ると、病家はまず驚き、病人がそれを知ると、死の不安を持ち、生の気を持たず、どうして効果が得られようか?誰が邪の集まるところ、その気は必ず虚していることを知っているだろうか。邪を攻める中に人参を用いることで、初めて万全を期すことができる。私はこれを語らずにはいられない、万世に人を活かすために。 [傍注:人参は邪を攻める薬ではないが、邪気が盛んで正気が虚している場合、邪を攻める薬に補助として加えれば、攻補両方が勝つことができる。邪が軽い者は、用いる必要はない。人が壮実である者は、用いる必要はない。ただ 邪の勢いが重く、人の気が虚している場合、攻薬の中に人参を加えるしかない。それは攻を助けるのではなく、その虚を補うためであり、虚を補えば邪は自ずと退くのである。 ]

本草新編35  人参18

あるいは 陽明病 について尋ねる。譫語して潮熱を発し、脈は滑にして疾、明らかに邪気余りあり。 承気湯 を用いても大便なく、脈はかえって微渋にして弱に変わる。邪気盛んにして津液乾くにあらずや?邪気を攻めんとすれば正気益々虚し、正気を補わんとすれば邪気は未だ散ぜず。この際も人参を用いるべしや? ああ!人参を捨ててまた何をもって命を奪うべけんや?ただ人参を用いるも必ず生を保証するにあらず。法は人参一両、大黄一銭を用い、同煎してこれを治す。 大便を得て気が脱落せざる者は即ち生じ、然らざる者はその不死を信じるべからず。