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本草新編41  石膏1

石膏は、味が辛甘で、性質は非常に冷たく、重く沈み、降下する。陰中の陽であり、毒はない。生で使うのが良く、火で焼くと効果がない。

肺、胃、三焦に入る。

汗を出して解肌し、頭痛を治し、脾臓を和らげ、喉の渇きを止める。

風邪が陽を傷つけ、寒邪が陰を傷つける場合でも、肌表を解して治癒する。

胃熱で食べ過ぎる場合も、胃熱で食べられない場合も、それぞれ胃火を瀉して治癒する。

痰火の積滞を取り除き、胃の痛みを止め、発狂を鎮め、譫語を鎮めることができる。

これは降火の神剤であり、瀉熱の聖薬である。

仲景張夫子はこれを白虎と名付け、軽々しく使うべきではないが、使ってはならないとは言っていない。しかし、世人はこれを恐れ、まるで白虎のように、一度も使うことを敢行せずして、死症に遭遇した場合や危症に遭遇した場合に、どうして蘇生したり、再び安んじたりすることができるだろうか?

石膏が火を降ろすのは、胃火を降ろすのであって、臓火を降ろすのではない。石膏が熱を瀉すのは、真熱を瀉すのであって、仮熱を瀉すのではない。その胃火真熱を弁別すれば、石膏を使っても間違いはないだろう。

胃火が初期の時には、必ず口が渇き、水を飲むと少し楽になり、汗は雨のように流れ、舌は非常に荒れ、水を飲んでも口は必ず乾き、目は赤くなり、精神は不安定になる。このような症状が見られる場合、それが確かに胃火であって臓火でないならば、石膏を使っても躊躇する必要はない。

真熱の者は、舌に必ず刺が生じ、刺が生じなくても、舌苔は必ず黄色で亀裂があり、非常に喉が渇いて水を求め、10杯以上の水を飲んでも足りず、軽ければ譫語を発し、ひどければ罵詈雑言を言い、水を見ると入り、服を捨てて走り、高所に登って叫び、発狂して人を知らない。これが真熱である。この場合は、石膏を大量に灌注しても疑う必要はない。

もし口が渇いてもそれほどではなく、水を与えても飲まず、言葉は乱れても罵詈雑言を言わず、体は熱くても躁動せず、上半身は熱を嫌っても下半身は非常に冷たい場合は、すべて仮熱の症状であり、軽々しく石膏を使うべきではない。

[傍注:火熱の症状を非常に明確に区別しており、どうして疑念を抱くことがあろうか。これで火熱を弁別すれば、決して人を殺すことはなく、どうして虎のように恐れ、死を見捨てて救わないことがあろうか?石膏は実際に死を救う薬であり、症状の判断が不明確なために薬の使い方を誤り、死を救う薬が、かえって命を傷つける薬になってしまったのである。今、明確に弁別できたので、必ず正確に使うべきである。]

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 昭和45年、30歳の時に氷見で漢方専門薬局を開業し、それから57年たちました。もう今年は米寿を迎えます。 昭和の年代はかなり自由に漢方薬局で処方が組めました。人口が多かった頃は顧客も多く、無我夢中の成壮年期を過ごしてきました。日本漢方から中医学への転換もありました。どっと流入してきた中医学書のなかで悪戦苦闘した毎日でした。みな楽しい思い出です。 しかし人口が減り、私の役割も終わったようです。2020年のコロナ流行時に薬局を閉鎖し、今は隠居生活を楽しんでいますが、出来得る限りは日本の漢方業界を応援していきたく思っています。 見渡す限り、漢方/中医学の世界は誠に悲しむべき実態で、今にも亡びそうです。「 このままでは日本の漢方・中医学は消えていってしまう! 」とばかり「 漢方/中医学 」のフェイスブックを立ち上げて奮闘努力をしていますが、寿命の尽きるまでの数年間を、こちらのブログで燃やしたいと思っています。

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