スキップしてメイン コンテンツに移動

本草新編3

七方論2
小方
病に軽微なものがあり、大きな処方では対応できない場合は、必ず小さな処方で治療する。軽い病は多くが上部にあり、上部の病に大方を用いると、重すぎて必ず下部に降りてしまい、上部に昇らない。小方は小さな病を治すものであり、小さな病は多くが陽にあり、陽の病に大方を用いると、発散しすぎて必ず正気を消耗させ、邪気を助長してしまう。ゆえに小方を用いる場合は、小さくあるべきであるが、無理に小さくするべきでもない。

病が小さく散らすべきであれば、柴胡を多く用いてもよい。病が小さく清めるべきであれば、麦冬を多く用いてもよい。病が小さく引き上げるべきであれば、桔梗を多く用いてもよい。病が小さく降ろすべきであれば、厚朴を多く用いてもよい。

『精校本草新編』より

コメント

このブログの人気の投稿

ブログの開設

 昭和45年、30歳の時に氷見で漢方専門薬局を開業し、それから57年たちました。もう今年は米寿を迎えます。 昭和の年代はかなり自由に漢方薬局で処方が組めました。人口が多かった頃は顧客も多く、無我夢中の成壮年期を過ごしてきました。日本漢方から中医学への転換もありました。どっと流入してきた中医学書のなかで悪戦苦闘した毎日でした。みな楽しい思い出です。 しかし人口が減り、私の役割も終わったようです。2020年のコロナ流行時に薬局を閉鎖し、今は隠居生活を楽しんでいますが、出来得る限りは日本の漢方業界を応援していきたく思っています。 見渡す限り、漢方/中医学の世界は誠に悲しむべき実態で、今にも亡びそうです。「 このままでは日本の漢方・中医学は消えていってしまう! 」とばかり「 漢方/中医学 」のフェイスブックを立ち上げて奮闘努力をしていますが、寿命の尽きるまでの数年間を、こちらのブログで燃やしたいと思っています。

本草新編22 人参5

 「 本草新編21 」までは「 漢方まんだら 」にて発表してきましたが、今後は本ブログ「 漢方/中医まんだら 」にて継続発表していきます。 人参5 ある人が尋ねた。「人参は純粋な品であるのに、なぜ邪を攻めるのに使うのか?」と。人参は邪を攻める聖薬であることを知らないのだ。 凡そ人の身に邪気が入るのは、皆、気が虚しているためであり、皮毛を外から守ることができず、その後、風、寒、暑、湿、熱、燥の六気が初めて侵入できるのである。 邪は虚から入り、邪を攻めるのに人参で気を補わずしてどうしてできるだろうか? しかし、人参を用いて邪を攻めるには、実際には方法があり、軽々しく用いるべきではない。邪が初めて侵入したときは、少量の人参を補助として用いるのが良く、邪が深く侵入したときは、多量の人参を主として用いるのが良く、邪が去ろうとするときは、専ら人参を主として用いるのが良い。多寡の間を斟酌し、前後の際を審量すれば、どうして人参を用いることができず、邪を攻めることができないと云えるだろうか?故に邪がその気を逼迫し、至陰の中に陥れたとき、人参なくしてどうして至陽の上に昇らせることができようか。 邪がその気を逼迫し、表裏の間に拒んだとき、人参なくしてどうして腠理の外に散らすことができようか。邪がその気を逼迫し、胸膈の上に逆らったとき、人参なくしてどうして膀胱の下に瀉すことができようか。 近頃の人は人参を用いるのを見ると、病家はまず驚き、病人がそれを知ると、死の不安を持ち、生の気を持たず、どうして効果が得られようか?誰が邪の集まるところ、その気は必ず虚していることを知っているだろうか。邪を攻める中に人参を用いることで、初めて万全を期すことができる。私はこれを語らずにはいられない、万世に人を活かすために。 [傍注:人参は邪を攻める薬ではないが、邪気が盛んで正気が虚している場合、邪を攻める薬に補助として加えれば、攻補両方が勝つことができる。邪が軽い者は、用いる必要はない。人が壮実である者は、用いる必要はない。ただ 邪の勢いが重く、人の気が虚している場合、攻薬の中に人参を加えるしかない。それは攻を助けるのではなく、その虚を補うためであり、虚を補えば邪は自ずと退くのである。 ]

本草新編35  人参18

あるいは 陽明病 について尋ねる。譫語して潮熱を発し、脈は滑にして疾、明らかに邪気余りあり。 承気湯 を用いても大便なく、脈はかえって微渋にして弱に変わる。邪気盛んにして津液乾くにあらずや?邪気を攻めんとすれば正気益々虚し、正気を補わんとすれば邪気は未だ散ぜず。この際も人参を用いるべしや? ああ!人参を捨ててまた何をもって命を奪うべけんや?ただ人参を用いるも必ず生を保証するにあらず。法は人参一両、大黄一銭を用い、同煎してこれを治す。 大便を得て気が脱落せざる者は即ち生じ、然らざる者はその不死を信じるべからず。