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本草新編73 白朮1

 白朮は、味が甘辛く、気は温かく、昇降可能で、陽中の陰であり、無毒である。心、脾、胃、腎、三焦の経絡に入る。

湿を除き、食を消し、気を益し、陰を強め、特に腰と臍の気を利する。汗があれば止め、汗がなければ発汗させ、黄耆と同じ効能を持つ。まさに君主の薬であり、偏った将ではない。

しばしば一味で成功することがあるが、世人はまだ知らない。今、天地の奇を漏らす。例えば、腰痛の人には、白朮二、三両を水で煎じて服用させると、一剤で痛みが半減し、二剤で痛みが失われる。腰痛は腎経の症状であり、人が信じないことはない。

腎虚の者は熟地黄、山茱萸を用いて水を補っても効果がなく、杜仲、補骨脂を用いて火を補っても効果がないのに、なぜ白朮一味で効果が得られるのか?

白朮が最も腰と臍を利することを知らないからである。腰痛は水湿の気が腎宮に侵入したものであり、故に補剤を用いると、かえってその邪気の盛んさを助けることになる。それよりも、白朮一味を単独で用い、何の制約もなく、直接腰と臍を利するのが良い。臍の気は元々命門に通じており、臍の気が通じれば、腰の気も利する。腰と臍の気が利すれば、腎中の湿気がどうして長く留まることができようか、自然と湿気が去って痛みが失われるのである。

[傍注: 白朮が腰と臍の気を利するのは、元々腎中の湿を利することである。腎が湿っていなければ腰は痛まず、腎の湿が去れば腰と臍は自然と利する。]

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 昭和45年、30歳の時に氷見で漢方専門薬局を開業し、それから57年たちました。もう今年は米寿を迎えます。 昭和の年代はかなり自由に漢方薬局で処方が組めました。人口が多かった頃は顧客も多く、無我夢中の成壮年期を過ごしてきました。日本漢方から中医学への転換もありました。どっと流入してきた中医学書のなかで悪戦苦闘した毎日でした。みな楽しい思い出です。 しかし人口が減り、私の役割も終わったようです。2020年のコロナ流行時に薬局を閉鎖し、今は隠居生活を楽しんでいますが、出来得る限りは日本の漢方業界を応援していきたく思っています。 見渡す限り、漢方/中医学の世界は誠に悲しむべき実態で、今にも亡びそうです。「 このままでは日本の漢方・中医学は消えていってしまう! 」とばかり「 漢方/中医学 」のフェイスブックを立ち上げて奮闘努力をしていますが、寿命の尽きるまでの数年間を、こちらのブログで燃やしたいと思っています。

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