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本草新編25  人参8

ある人が尋ねた。「喘脹の病気で、しばしば人参を使うと悪化することがあります。これは人参が気を動かす薬だからです。ああ!人参は喘息を鎮める神薬であり、脹満を取り除く仙薬なのに、どうして気を動かす薬だと言えるのでしょうか?」

夫(それ)喘息と腹部脹満の症状は異なります。外感による喘息もあれば、内傷による喘息もあります。外感による腹部脹満もあれば、内傷による腹部脹満もあります。外感による喘息は、風邪が肺に入ったものです。山豆根、柴胡、天花粉、桔梗、陳皮、黄芩の類を一服すればすぐに治り、人参で治せるものではありません。

もし内傷による喘息であれば、それは普段から脾胃の気が大いに不足しており、一時的に気が動き、相火を伴って喉に突き上げ、臍の下の気が上昇し、胸膈からまっすぐに突き上げて喘息を起こし、眠ろうとしても眠れず、歩こうとするとさらに悪化します。その状態は、肩を上げて声を出すような様子はありませんが、実際には外感の症状よりもはるかに重い。この病は気が元に戻らず、腎気が虚弱で尽き、下に身を隠す場所がないため、上に突き上げざるを得ません。

その気は盛んに見えますが、実際には虚弱であり、余剰の症状ではなく、不足の症状です。この時、もし外感の薬を使えば、気はさらに消耗し、人参を使って瀕死の状態から回復させるしかありません。しかし、人参を少量使うと上に浮き上がり、かえって喘息を助長するように感じられます。一、二両まで使って初めて下に降り、何もない郷で気を生み出し、気が逆流を転じ、喘息を鎮めることができます。

外感による腹部脹満は、水邪です。皮膚を押すと、泥土のようにねじれることがあります。牽牛、甘遂をそれぞれ二銭使って瀉せば、利水によって症状は治り、人参に頼る必要はありません。

もし内傷による腹部脹満であれば、水に似て非なるもので、脾胃の気が大いに虚弱であり、虚脹であって実脹ではありません。この時、もし水を治すようにすれば、気は脱し、腹部脹満はさらに悪化します。人参を使って脾胃の気を健やかにするしかありません。しかし、急に人参を使うと、脾胃が弱すぎ、すぐに受け入れられず、かえって満腹感のような状態になります。長く使えば胃の気が開いて脾の気も健やかになり、徐々に人参を増やしていけば、満腹感は消え、腹部脹満も完全に解消されます。誰が人参が喘息や腹部脹満を治さないと言ったでしょうか?

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ブログの開設

 昭和45年、30歳の時に氷見で漢方専門薬局を開業し、それから57年たちました。もう今年は米寿を迎えます。 昭和の年代はかなり自由に漢方薬局で処方が組めました。人口が多かった頃は顧客も多く、無我夢中の成壮年期を過ごしてきました。日本漢方から中医学への転換もありました。どっと流入してきた中医学書のなかで悪戦苦闘した毎日でした。みな楽しい思い出です。 しかし人口が減り、私の役割も終わったようです。2020年のコロナ流行時に薬局を閉鎖し、今は隠居生活を楽しんでいますが、出来得る限りは日本の漢方業界を応援していきたく思っています。 見渡す限り、漢方/中医学の世界は誠に悲しむべき実態で、今にも亡びそうです。「 このままでは日本の漢方・中医学は消えていってしまう! 」とばかり「 漢方/中医学 」のフェイスブックを立ち上げて奮闘努力をしていますが、寿命の尽きるまでの数年間を、こちらのブログで燃やしたいと思っています。

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